GOLDEN AGE OF DAYTONA BOTT
アスファルトを揺るがす熱きバトル

崩れ落ちる寸前の大波のようなバンクに
木霊する地響きのごとき轟音が
底抜けに明るいフロリダの空に消えてゆく

デイトナ200は英国のマン島TT、フランスのボルドールなどと並び、現在も続く伝統のモーターサイクルレースである。

200マイル=360キロを走るこのレースは、1937年にビーチに作られた3・2マイル=約5・1㎞のサンドコースで始まり、第2次大戦の中断を挟んで48年からは4・1マイル=約6・6 ㎞ にレイアウト変更。開始当初はハーレー対インディアンのアメリカンバトルが繰り広げられていたが、40年代には英国車が台頭、49年から52年にはノートンが4連勝を果たしている。対するハーレーは52年に現在のスポーツスターの元祖となるサイドバルブのKR-TTを投入、同時にレギュレーションでサイドバルブの最大排気量が750㏄に対してOHVを500㏄に制限し、55年から61年のレースを制している。

1961年には現在のインターナショナルスピードウエイが完成。舞台を砂浜からアスファルトへと移したが、BSAやトライアンフと熱戦を繰り広げながらも常にハーレーが優位を保っていた。言うなればデイトナ200は 〝アメリカ勝利のため”のレースであったといえる。

しかし〝アメリカ有利”のレギュレーションが世界のモーターサイクルシーンに合致しなくなり、AMAは70年にハーレーがOHVのXR750を投入するタイミングに合わせてレギュレーションを『弁駆動方式を問わず750㏄』に変更。その年は69年に衝撃的なデビューを果たしたCB750フォアを擁するホンダがデイトナ200を初制覇する。71年はBSAがトライアンフと共同で開発した3気筒エンジンを搭載したロケット3が勝利。72年はヤマハの2ストローク350㏄がレースを制し、以降ヤマハは破竹の13連勝。ハーレーダビッドソンは69年の勝利を最後に表彰台に立つことすらできなくなってしまった。

そこで始まったのがBOTT、バトルオブザツインズである。2気筒のみによるレースならハーレーは勝てるはず。そう、BOTTは200マイルで勝てなくなったハーレー=アメリカを勝利させるために作られたレースであった。

DUCATI
ハイメカツインの勃興と、黄金時代の終わりの始まり

ドゥカティが空冷パンタ系をベースとするファクトリーマシンに、当時世界GPのスターライダーだったマルコ・ルッキネリを乗せてBOTTに参戦したのは84年のこと。しかしルッキーを擁しながらも、ハーレーダビッドソンの古めかしいOHVを打ち負かすまでに3年の時を必要としたのは、ドゥカティにとって大いなる誤算であったに違いない。

HARLEY-DAVIDSON
勝ち負けにかかわらず観客の熱狂を巻き起こす、デイトナの王

ハーレーダビッドソンが、4つのカムで4本のバルブを駆動する当時”最先端”の750㏄サイドバルブVツインエンジンを搭載するWLを発表したのが1937年。その年に始まったデイトナ200マイルで宿命のライバルであるインディアンや英国車と激しいバトルを繰り広げたのは前述のとおりだが、そんなハーレーがBOTTのために作り上げたのがこのマシン、そう、ルシファーズハンマーである。ルシファーとは神話に登場する魔王であり、その振り下ろした鉄槌=ハンマーがこのマシンと言うわけだ。

MOTO GUZZI
デイトナで証明された縦置きVツインのポテンシャル

レースと最も縁遠いと思われてきたモトグッツィも、BOTTではその意外なポテンシャルを証明することになった。
フロリダで歯科医営むジョン・ウィットナーは、その職業柄ドクタージョンと呼ばれるグッツィのプライベートチューナー。しかし彼が手を加えたグッツィはハーレーやドゥカティのワークスチームに勝るとも劣らぬパフォーマンスを発揮。
デイトナで人気の高いプライベータ―であった。

Quantel Cosworth
誕生から15 年を経てたどり着いた勝利の美酒

コスワースといえば4輪のF1にもエンジンを供給する世界有数のレーシングエンジンビルダーだが、そのコスワースが唯一2輪のレースに参戦したのがBOTTである。
1970年代初頭、ノートンは空冷OHVツインのコマンドに代わる次世代エンジンをコスワースと共同で開発を開始。P86と名付けられたこのエンジンはDOHC4バルブを採用し、75年に完成したマシンをレースに投入するも結果を残すことができずにノートンの財政破たんによりそのままお蔵入りになったのだった。
それから10年近い時を経て、英国のクワンテル・メディア・グループのスポンサードの元、BOTT制覇を目指してP86計画が再スタート。そうして出来上がったのがこのマシンである。

BRITTEN
一人の男の人生そのものがここにある

ニュージーランドのエンジニアであるジン・ブリッテンが初めてオートバイを製作したのは1985年のこと。ドゥカティのパワーユニットを自ら設計したトラッスフレームに搭載し、前輪の前までくちばしのようにカウルが突き出したユニークなデザインの公道仕様で、その2年後にはデンコエンジニアリング製のアルコール燃料レース用500㏄エンジンを2機繋げた60度Vツインを搭載。このエンジン製作にあたりクランクケースを自ら鋳造して製作したが、このケースはスイングアームピボットを持つフレームのストレスメンバーとして使用。ここから得たノウハウが後のV1000のベースとなったことは想像に難くない。

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